コギトについて少し


参議院選挙が終わった。ここ数年選挙のたびごとに感じさせられるのは、その前と後ろの温度差だ。前は善良な市民も権力者も物狂おしくなにがしか叫ぶ。そして選挙を終えた後は水を打ったように静まり返る。潮が引き切る。引き切った向こうで善良な市民と権力者の境は曖昧になり、普通の暮らしに戻る。曖昧さに隠れて市民と権力者が手を結ぶことさえ不思議ではない。『物狂おしい』と言ったが、前後のどちらが本当の狂態なのか、僕には判別不能な気持ちがする。

参議院選挙の後は東京都知事選挙だという。
候補者云々は差し置いて、今度こそはと望みながら、おそらく来る選挙も、その境界線の前と後ろで誰しも態度を変えるだろう。何度も見てきたことだ。もはや希望もない。あられもない未来予測に聞こえるかもしれないが、おそらく高確率で的中することだろう。当たれば博奕に勝ち、外れれば世のためになると思っている。

未来予測と書いてふと2012年に準備していたとあるシナリオを思いだした。それは『ネオ・ウルトラQ』という特撮ドラマの中の一話である。
過激派が人質を取ってビルを占拠する。突如空に巨大な生命体が現れる。その生命体は立てこもり現場周辺を隔絶し、人類に提案をする。選挙をしろというのだ。選択肢は二つ、一つは過激派及び人質の命を奪う。もう一つは日本国の首相の命を奪う。こうして国民投票が行われる。
そんなストーリーである。
誰しもが生々しく記憶しているように、僕もこのシナリオを書いた2012年は依然震災の精神的後遺症に悩まされてたものだ。そんなナイーブさを言い訳にしてもおつりが来るほど愚にもつかないストーリーだが、一つだけ僕には確信があり、それはその後様々な局面で民主主義そのものが論われなければならなくなるだろうというものだった。

考えてみれば僕たちは2011年の3月以前の日本の雰囲気をいまいち思いだしにくくなっている。激烈な経験からくる一種の健忘症の類に陥っているかのようだ。が、注意深くかつての世間の気分のようなものを思いだすだに、政治は政局、よしんば政策について論われても、民主主義そのものを今のようにここまで問題にしなければいけない気分になることは少なかったのではないか。
けれど、地震を契機に日本の底が抜けてしまい、いよいよそれを問題にせざるを得なくなる、なぜかわからないけれど僕はそんな未来予測に心を囚われてしまっていた。
なぜだろうか。

ともかく、予測は当たりつつある。いや、外れたと言うべきか。
民主主義について論うことは悪いことではないだろう。しかし今それはなされてない。代わりに民主主義そのものの制度疲労がそこかしこで露見してしまっている。
改めて言わねばならないのは、僕はここで権力の座にある者たちの悪政をとやかく言うつもりがないということだ。むしろ選挙に直面する善良な市民たちを問題にし、問題視したいということだ。

震災後しばらく経った今の僕はかつて囚われた民主主義のイメージの代わりに『先導獣』のイメージに囚われている。
僕が何によってそのイメージを獲得したかといえば、古井由吉が始めに書いた『先導獣の話』という短い小説からだ。
初めて読んだ二十代の頃、僕はこの小説がちっとも面白くなかった。しかし、時を経て今の僕は、この小説がこの時のために用意されていたのだとさえ解している。

そもそも古井由吉からして『先導獣』という着想をブロッホの「誘惑者」という小説から得ている。
「誘惑者」はヒトラータイプの男が牧歌的な山村に流れ込み善良な村人を熱狂に巻きこんでいくというストーリーだと言う。
つまりこのヒトラータイプの男が『先導獣』=(扇動者)というわけだ。
しかし古井由吉はそれを自分の小説のものとする時、まず『先導獣』を読み換える。
いわく、「草原にのどかに広がる群獣の中のまだ若い一頭が、ふと空に向かってたわいもなく前肢をそろえて跳び上がったかと思うと、たちまち目に見えぬものの息に触れたように、ものに怯えたさまで走り出す。するとまわりの大人しい獣たちは一斉に反芻を止めて、(中略)ふと思いだしたように、彼らは不精らしく、ほとんど迷惑そうな跑足でゆるゆると走りはじめる」
そして真剣さがためらいの一線を越えた瞬間、群は一頭の獣になり猛獣さえ蹴散らして疾駆する。
群に図らずもパニックを引き起こさせた先導する獣に、古井由吉は「まだ無邪気な媚をふくんだ、それでいてどこか物狂わしい、小児の目を思い浮かべ」る。
その先導獣は、決してヒトラーのようなファシストですらない。我々の先導獣は扇動を企てるいかなる者でもないのだ。
そして整然と無邪気な幼児性をたたえた先導獣に付き従うのは普段は厳然と秩序の内でそれを頑なに守る温厚な、ともすれば愚鈍な獣たちだろう。
僕は、やがて選挙の度、いや選挙と選挙の間にも、この先導獣と先導される獣たちのイメージに付きまとわれるようになった。
これは一種のパニックか、もしくはヒステリーの類だ。一匹の無辜なる先導獣によって走らされる善良な獣どもは、走っているときに走らされていると自覚せず、走り終えても走らされていたことを記憶せず、またすぐに走らされ、その円環が永遠に繰り返される、そんなパニックだ。
僕は子供の頃から、戦争そのものや殺人、その他悪徳のうちでこのパニック、恐慌こそを怖れていた。それがイメージとしてこびりつき、現に目の前で繰り広げられている。善良な市民が無自覚に起こす恐慌である。

だが古井由吉はそのイメージの端緒にとどまらず、『先導獣』の正体を見極める。
その正体がどんなものか確かめるべく、僕は十数年ぶりに「先導獣の話」をひもといた。 主人公の男は五年の地方勤務を経て帰京する。東京の朝、夥しい数の大人しい人間たちが整然と列をなし移動しているそのさまを前に恐ろしさを覚える。そして『先導獣』を思い浮かべ、空想に耽る。やがて主人公は一匹の先導獣に留まらず、「自分自身がその一人である群衆の殺到を、自分自身の内側から、不安な気持ちで見まもる……。私はこれらすべてを一時に見て、《これが先導獣だな》とつぶやいた」
まさしくそうなのだ。先導獣を先頭の一匹とするには足りない。むしろ先頭の一匹は厚顔無恥でいたいけな幼児性の抜けきらない、空を見て駆けだしただけの獣であるはずだ。
群衆の殺到、それこそが先導獣だという説明のつかない不安な気持ち、それが今僕が持ちあわせているイメージの正体のようだ。

選挙の話に戻る。いずれ日本は初めての国民投票を経験するだろう。結果はあまりに民主的であるはずで、吉凶いずれにしろ、経験が日本の民主主義を鍛えることになると考えるべきだ。そんなことよりも、僕はきっとその時、先導獣のパニックの方に怯えることだろう。先の参議院選挙でそんな予測がほぼ決定した。
パニックを祭りと読み換える人々が出現したことには暗澹たる思いに駆られてしまう。あまつさえ厚顔を自覚もせず『祭り』と公言してしまった善良な市民も多数現れたほどだ。 それはヒステリーでありパニックでしかない。
ここに一つ心に留めたいのは、狂奔だけがパニックではないということだ。パニックは極限まで秩序化された善良な市民の歩みそのものである時さえある。

古井由吉は『先導獣の話』をこう締めくくる。
「困ったことになりましたねえ……」
「ほんとに、君、困ったことにね……」


(いながき きよたか)




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