コギトについて少し


この間、久しぶりに山ちゃんと話していた時のこと。
どうしてそんな話になったのだか忘れたが、彼がこんなことを言いだした。
「ある一定の年齢以上の世代の人は多かれ少なかれコワいです。決定的に今の若い人たちとは違い老成してるんです。これは僕の仮説ですけど、何が違わせたのかというと、上の世代の人たちは、多分子供の頃『早く大人になりたい』と思ってたんです。でも自分も含めて今の若い世代は違います。子供ころ、こう考えていたはずです。『できることなら子供でいたい』。これが上と下の世代の違いだと思います」

世代論的言説にもともと危うさを感じるものの、しかし、確かに最近若い人たちと接するとき「ん?」となることが多い。古代エジプトから続くと言われる『最近の若いもんは』症候群に罹る年頃に俺もなっちゃったのかななんて思っていたのだが、でも、山ちゃんのような自分よりも下の世代から自発的に「最近の俺らときたら」的な告白されたら、『最近の若いもんは』症候群も、あながち症候群などと割り切れない気もしてくる。

僕だけかもしれないけど、確かに最近日本の雰囲気が危うい感じがビンビンしている。いつの時代も文化的な風向きは若者が作るものだとするなら、この危うい雰囲気はすなわち若者の雰囲気でもあるのかもしれない。とまあ、最近の若い人たちの傾向がいかなるものか、別にここであげつらいたいわけでもない。そもそも最近の若い人、なんていう言い方、もともと好きじゃないのだ。

問題は、山ちゃんの『上の世代は早く大人になりたかった』説である。

さて、この説に僕は当てはまるのだろうか。当てはまれば、上の世代ということになるし、できることなら子供でいたかったのなら下の世代ということか。
考えてみれば、僕はどちらでもなかった。
早く大人になりたいなんて思ったことはなかった。その代わり子供でいたいとも思わなかった。

10代の頃、一時期ビートルズに熱を上げていた。その音楽もさることながらメンバーの言動やエピソードを拾遺することにも目がなかった。メンバーの一人ジョージ・ハリスンのこんな言葉にひどく共感したものだ。
「二十歳になった時つくづく年をとったと思った。三十歳になったらもう老人だ」
同じころ、ランボーにも熱中した。スタローンのランボーも好きだけど、この場合は詩人の方のランボーである。
ランボーは唯一無二の詩を残しながら、二十歳で文学を卒業した。のちはまるで文才を示さず熱砂の商人となってアフリカの地で死んだ。二十歳という年月ですでにランボーは一度文学をすべて生き尽くしたわけだ。
つまり、大人になりたい、あるいは子供でいたいという発想は僕にはあまりなくて、ティーンを過ぎればすでに独立した人間であろうという見立てしか存在しなかったのだ。
こんなことがあった。
現代の尺度で計れば少々気が違っているとしか思えない僕の父は、僕が三歳になったその日、目の前に僕をわざわざ正座させこう言った。
「今日からお前は三歳だ。三歳ならもう立派に分別がつくはずだ。だから今日からお前を大人としてみなし接することにする」
その日のことを今でもはっきりと覚えている。事実その日以来父は僕を徹底的に大人扱いした。
翻って、今の僕には、あの頃の父と同じように息子がいる。息子は「今日から大人」と言われた当時の僕とだいたい同い年くらいである。だが、僕には彼が分別のつく大人だとは思えない。息子と僕に大きな違いはないはずだ。僕が特別大人っぽい幼児だったわけでも、息子が特別幼児っぽい幼児であるわけでもない。してみるとうちの父はやっぱりどうかしてる。三歳の幼児を捕まえ、「お前は今日から大人」なんて、どういう発想なんだろうか。ほら、言うじゃないか、「七つまでは神のうち」ってさ。

もう一度「大人‐子供」説に戻るが、ようは大人になりたいか子供でいたいかが問題ではないのかもしれない。いや、少なくとも僕と僕の周囲の人間たちには問題ではなかった。
ようは、子供でいさせてもらえるか、もらえないかが問題だったわけだ。もしかしたら、これが世代の分かれ目なのかもしれない。
と考えると、思い当たる節がなくもない。
だって、今の僕は、僕のイカれた父と同じように、自分の息子に向かって、「お前はもう大人だ!」などとは到底言えそうもないのだ。「七つまでは神のうち」どころか、おそらく十代になっても、その危うさから思わず子供扱いしてしまうかもしれない。僕がかつて子供のころ大人たちから受けた「大人扱い」という処遇が意外なほどつらかったその経験ゆえに、きっと自分の子供にはできるだけ子供でいさせてしまいそうである。
でも、それは果たして世代の止揚になっているのだろうか。つまり前世代より次世代がより良いものとして進歩していくだろうか。
いや、進歩どころか、かつての自分がしてほしかったことをただ再生しているだけなのではないか、優しさの仮面をかぶりながら、その実、当の本人たちの不利益になっていやしないか、ましてそんな忖度が時代を甘やかす起因になりはしないか……。
山ちゃんの言葉に端を発し、僕はそんな風なことをつらつら考えた次第だ。

今の「若者」はどうやら物足りないらしい。前世代に言われるまでもなく、物足らなさを自認さえしているようだ。最近そんな局面に出くわすことがよくある。
「若者」自身を問うことは簡単だ。やり玉にあげて、ここが悪い、こうすればよいなどと溜飲を下げることもできる。でも、酒でも飲みながらオッサンたちが居酒屋政談で盛り上がるくらいが関の山である。ションベンの足しにしかならない。
「若者」も物足りないかもしれないが、それより「オッサン・オバハン」も物足りないのだ、きっと。

もしかしたら、これからどんどん「上の」世代になっていく僕たちは、あのイカれた父に倣わねばならないのかもしれない。
賢しらに理解を示していれば、もしかしたら自分は気持ちがいいかもしれない。でも、それは本当の優しさにならない。いや、優しさの問題ではなかろう。次世代への責任の問題だ。
忸怩たる思いを抱えながら「お前らはもうずいぶん前から大人だ!」と正座させ一喝できるようなイカれた父にならねばならないのかもしれない。


(いながき きよたか)




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