テロの味


スリランカへ行ったことがある。

スリランカといえば、「インド洋の宝石」という通り名のごとく、南国リゾート地、かの有名なジェフリー・バワがデザインした高級ホテルに石の城シーギリヤ、かつて植民地時代イギリス人の保養地だった名残色濃い英国式のゴージャスなホリデイを想像するかもしれない。
今、訪れるならば、あるいは上述のようなトロピカルリゾートを満喫できたかもしれない。
けれど、僕がスリランカを訪れたのは、10歳の時、小学五年生の夏休みのことだった。

小学五年生の夏休みを控えたある日、父に呼ばれ、聞かれた。
「スリランカへ行きたいか?」
僕は、行きたいと答えた。そうしたら、行かせてもらえた。しかし、条件があった。父は言った。
「一人で行って来い」
小学五年生の僕にはその意味が分からなかったし、実際、わからぬまま、スリランカへたどり着いた。
道程はこうだ。
まず、ビザを発行してもらう。今はどうかわからないが、当時スリランカへ行くには渡航ビザが必要だった。(理由は後述する)
渡航当日、名古屋から成田空港へ移動。ここまでは、両親兄弟と同行。成田空港で出発ゲートを過ぎて後は、僕の身柄は両親からJALのスチュワーデスさんに引き渡された。
そして、シンガポール行きの日本航空便に乗り込んだ。
子供ながらに「ほんとに単身外国へ行くんだ」と、内心緊張し始めていたが、キレイなスチュワーデスさんに手を引かれ、ビジネスクラスに乗せてもらい、おまけに、コクピットに入らせてもらうという幸運にも浴し、気を良くしながら、シンガポールにトランジット。そこで、シンガポールエアライン、スリランカ行へ乗り換えたのである。
乗り換えゲートで、僕の身柄は日本人のキレイなスチュワーデスさんから、何人かもわからぬ笑顔だけは素敵なスチューデスさんに引き渡された。もちろん、日本語は通じない。おまけに、深夜のシンガポール空港はなんだか気味が悪い。(すくなくとも子供の僕にはそう感じられた)なんだか、一瞬にして孤独になった。
考えてみれば、飛行機は、その国の雰囲気を運んでいるのかもしれない。JALなら日本の雰囲気を。そして降り立った飛行機の扉を開けたら、突然見知らぬ国に放り出される。間がないだけに唐突過ぎて、少し戸惑う。
一人で何時間も航空会社のラウンジで過ごし、やがて迎えに来たスチュワーデスさんと共に、再び飛行機に乗った。シンガポールエアラインは、無国籍なシンガポールの雰囲気そのものを運んでいた。むろん、日本人は僕以外誰一人いない。

当時、父はいくつだっただろう。おそらく、今の僕よりも少し年下、35歳くらいだ。そして、そんな当時の父に僕は言いたい。
「10歳の子供に、いくらなんでも、海外一人旅は無茶だろう。それに、あまりに国際情勢に疎すぎるよ」
そう、知らぬ方も多かろうと思うが、1983年からつい最近まで、スリランカは内戦状態だった。マジョリティであるシンハラ民族と被差別階級のタミル民族が激しく争っていたのだ。
僕が、スリランカに単身渡った1988年は、過激派組織、その名も『タミルの虎』が首都コロンボで頻繁にテロ事件を起こしていたまさにそんな時代だった。日本では、まだまだ『テロ』という言葉自体にあまりなじみがなかったようにも思う。
そんな場所に、子供を放り出した父はどうかしている、今では、ある意味感謝しているけど。

そもそも我が家とスリランカに、どんな繋がりがあったのか。
それは、僕の生まれる少し前、我が家が営む工場にインターンとしてスリランカ人を招いたことに始まっていた。
工業技術ではまだまだ後進に甘んじていたスリランカ人が日本に渡り、様々な技術を学んで帰り、自国に尽くすというわけだ。いかに戦乱に荒れていようと、故郷を発展させたいと考える人はいるものである。
我が家の稼業は窯業だった。多数のスリランカ人が窯業を学び、帰って行った。その中の一人に、ダヤシリさんという人がいた。この人は、なかでも勤勉で、一生懸命に窯業を学ぶと、自国へ帰り、陶器工場を築いた。これが大当たりし、スリランカでも有数の金持ちになったのだった。いわゆるスリランカにおける窯業の始祖のような存在である。
父は、このダヤシリさんという人物を頼りに、10歳の僕をスリランカへ送り出したというわけだ。

こうしてスリランカにたどりついた。
僕が初めて見た外国である。
閑散とした空港に、微かに見覚えのあるダヤシリさんが向かえに来ていた。古い型のベンツに乗り込んで、空港を後にする。と、帰路にはいくつも検問があった。夜だったと記憶している。後部座席に収まった僕は窓外を見た。自動小銃を肩から提げた兵士が僕を覗きこんだ。
戒厳令の敷かれた首都だった。
ダヤシリさんは、いわゆるセレブであり、通行証だか身分証だかを見せれば、どの兵士もうやうやしく検問ゲートを開いた。しかし、首都の雰囲気は、奇しくもその年公開されたスピルバーグの『太陽の帝国』で見たような、なんとなく殺伐とした、なんとなく不穏さがつきまとうものだった。
邸宅にたどりつくと、一ヶ月の滞在が始まった。けれども、外出は禁じられていた。表がどんな様子か僕は知るすべもなかったが、ただただ不穏さだけを感じていた。
ダヤシリさんに、今この国で何が起こっているのか、僕は聞けずにいた。慇懃で少々度が過ぎた真面目さを持つ彼は、おそらくひどく自国の情勢を恥じ入っていたような気がした。子供ながらにそれがわかった。
ある日、ビザの更新のためか、日本領事館に行かねばならず、どうしても外出せねばならなくなった。ダヤシリさんとその妻、そして一家の三男坊であるアヌラ君と共に、僕は街に出た。
暴力を隠した街だった。けれど、圧倒的な暴力の痕跡は消しきれなかった。ところどころ居眠りをする牛とともに大破した車輌が転がっている。よくみれば銃痕らしきものを認められなくもなかった。
目的地に着くと、用心深く、それでいて充分に日常を装い、車を降りた。焼け焦げたバスが横向きに倒れているすぐ脇を、僕たちは通り過ぎ、日本領事館へ向った。
このバスに乗っていた者たちは、死んだのだろうか、そう考えられなくもない、子供はいたのだろうか、バスを爆破させた犯人はどうなったのか、僕はぐるぐるとそんなことを考えた。

一ヶ月はすぐに過ぎた。38歳になった今の僕は、その一ヶ月に起こった出来事を詳細には思い出せない。断片的な記憶があるだけだ。
けれど、気分のようなものは強烈に覚えている。
帰朝する飛行機では、はしゃいでいた。交換する形で、アヌラ君と二人、日本に帰って来たのだ。
我が家に着いて、二日目のこと、平和で進歩的な日本の雰囲気にアヌラ君は興奮していた。アヌラ君は、僕をよくコンビニへと誘った。子供だけで外出し、お小遣いをもらって自由におやつを買えることが、アヌラ君にはよほどうれしかったのかもしれない。
その夜、僕は家族と共に夕食を囲んでいた。その時、なぜか、突然、無性に悲しくなった。悲しくて、涙が出た。涙の止まらない僕を母は、心配した。母が心配すればするほど、僕は泣けて仕方なかった。

先日、パリで同時多発テロ事件が起きた。
つい10日前のことだ。
イギリス留学中、パリに訪れたこともある。それに大学は一応仏文科でもあった。無視できない。
パリが重要な都市か否か、レバノンのベイルートやシリアやそれこそスリランカはパリに比して、重要度が低いか高いか、SNSアイコンはトリコロールか否か、僕は差し当たってそういうことに興味はない。
もう一度書くが、パリのテロ事件が起こったのはたかだか10日前だ。
脊髄反射のように哀悼を示した多くの日本国民の興味は、すでに別のものに移っている。すくなくとも、僕にはそう見える。
まあ彼岸の火事だから、面白おかしく語らって、飽きたら忘れる、いつものことだと思う。が、お彼岸でさえ、年二回合計14日あるのだから、なにをかいわんや……。
しかし、僕は、10歳の時に見たもの、そしてあの気分を、あまり忘れられないでいる。
ベレー帽をかぶったスリランカの兵士たち、兵士の肩から下げられたサブマシンガン、僕が乗っている車に向けられたサブマシンガンの銃口、道路を封鎖する鉄柵、日本領事館前に横転していた焼け焦げたバス、戒厳令が敷かれた首都。アヌラ君と、大人の目を盗み、家を抜けだして、工場の食堂に侵入して、工員たちが食すおつまみ、サモサを食べたこと。
そのサモサは、辛かった。いまだにあの辛さに勝る激辛料理を僕は口にしたことはない。
その辛さは、テロ直後、それでも白々しく日常を送るスリランカの首都の雰囲気と共に、いつまでも忘れられない味になっている。


(いながき きよたか)




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