70年前の8月


今年は、戦後70年だそうですね。
それに当月8月は、敗戦を迎えた月でもありますし、いろいろな
媒体で特集が組まれているようです。
僕も、今月は戦争映画が見たいと思い、先日『軍旗はためく下に』
と『炎628』という映画を観てきました。
それにしても、暑い季節に、映画館はいいですね。暗いし、涼し
いし、外が暑い夏だということを忘れさせてくれます。しかも、
この両作、グロテスクなまでのとんでもない生々しさ、おかげで
肝まで冷やされ、暑さなんて吹っ飛びました。

戦後70年というアニバーサリーのみならず、今年は、特に『戦
争』という言葉をよく聞く年ですね。もしかしたら、生まれて初
めてかもしれません、ここまで『戦争』という二文字を各所から
耳にする年は。
ただ、これまで『戦争』について考えることを忌避していたかと
いうとそうでもないような気がします。実は、僕らは、子供のこ
ろから、戦争について考えることに、多くの時間を費やしてきた
ように感じるのです。(この場合、第二次世界大戦及び太平洋戦
争・日中戦争を指しますが)

小学生に上がったころ、必ず読まされたのは、『はだしのゲン』
というトラウマ漫画でした。グロ中のグロですから、もう単純に、
「戦争めちゃこわい」となったもんです。(どうやら作者の中沢
さん、まさに、子供が恐怖するように、露悪的なまでにグロく書
こうとしたとか、まさに狙い通りですね)『はだしのゲン』のお
かげで、おしっこちびるかと思うくらい『ピカドン』が怖くなり
ました。小学生にあがり、自分だけの部屋を両親からもらったば
かりのころ、一人寝する前、不意に窓の外の夜空を見上げて、B
29を幻視し、そして、たった今、原爆が落ちてきたらどうしよ
うという、極限的な恐怖に襲われたのを思い出します。
それに、僕の世代の祖父母たちは、おおよそ戦中派の人々ではな
いでしょうか。僕は、祖父母と同居していたので、時折、戦争の
話を聞かされたりしました。中学に上がって、より詳しく近代史
をやったりしたとき、「で、実際どうだったのよ」なんて、率先
して祖母にインタビューしたこともあります。なんたって、生き
証人が同居しているわけですから、話を聞かない手はありません。
でも、どれだけ、『戦争』について考えても、とりあえず考えが
足りたという気分に、どうしてもならないのが不思議です。

こんなことがありました。
中学生の時のこと、祖母に戦争について聞いたときのことです。
その時代、祖母はなにをしていたのか、祖父はなにをしていたの
か、世間はどんな様子だったか、根掘り葉掘り聞く少年の僕に、
祖母は嫌がりもせず、いろいろ答えてくれました。
さまざまな苦労話を聞かせてくれる祖母でしたが、不意にある疑
問が、湧きました。「どうして、戦争なんてしたのか?」という
素朴な疑問です。
そんな疑問を僕はそのままぶつけました。きっとその質問には、
祖母が、まぎれもなく戦争の当事者であるというニュアンスが含
まれていたと思います。
すると祖母はそれまでとは違いあからさまに怪訝な表情を浮かべ
ました。
「どういう意味?」
「おばあちゃんも、戦争をしていたんだよね? どうして戦争を
やめなかったの?」
半分無邪気に、半分確信的に、僕は続けました。祖母は、「仕方
なかったんだよ」と、一言、それきり黙り込みました。「しまっ
たな」と思いながらも、僕には、なぜだか釈然としない気持ちが
残りました。
今ならば、馬鹿な質問だとわかります。
今となっては、当時の無辜の人々が無理やり戦争に加担させられ
ていたのだというのが、定説になっていますから、殊更傷をえぐ
るような質問をしてしまったのかなと反省しつつ、しかし、一方
では「仕方なかった」の一言では、根本的な疑問の解消にはほど
遠いのではないかと、今でも心の中では思い続けているのです。

吉田司さんというノンフィクションライターの方がいます。吉田
さんの著作の中に、『ひめゆり忠臣蔵』という本があるのですが、
この本、清廉無垢な女学生たちがむりやり戦争に動員させられた
ことで知られる「ひめゆり学徒隊」のことを揶揄したと抗議され、
かなりの改訂が加えられたことで知られています。
僕は、そこに何が書かれていたか知りたくなり、図書館で初版を
探し、読んでみたことがありました。つまびらかする余裕はあり
ませんが、書いてあることはおおまかにはこういうことです。
『非常に美談的に語られる被害者の物語としての「ひめゆり」の
中にも、実は、率先して戦争に加担した者たちがいたのではない
か?』
非常にいやらしい視点ですが、僕はある意味はっとさせられまし
た。

考えてみれば、日本において『戦争』が語られるとき、そのほと
んどが被害者の物語であるような気がします。それこそ、一般市
民のような大衆から、国を動かすことができるようなエリートま
で、彼らがそれを語るとき、ほとんどが、被害者の視点に立って
いる印象を受けるのです。
しかし、当時の日本人すべてが被害者ならば、「あの戦争」は起
こり得ようがありません。仮に、「大多数の日本人がヒステリー
症状にさせられるという被害をこうむったのだ」という、現実的
には少々無理がある設定をよしんば信じたとしても、それを理由
に「戦争を起こしてしまったが、それは仕方のないことだった」
ことには、なりません。

おおよそ「あの戦争」について饒舌に語られる被害者の物語はた
くさん存在します。もちろん、それらは「戦争」を知るためにと
ても役に立ちます。しかし、それらがさらにいっそう役立つもの
になるためには、方や、緘黙ならざるを得ないような加害者の物
語も必要だと思うのです。(あえて言えば、まして慙愧に堪えな
いはずの加害の物語を、英雄譚にしたてるなど馬鹿げていると思
うのですが、いかがですか)
加害者と被害者が個々人に同居してしまうような状態がまさに戦
争であり、だから戦争は残酷なのだと思います。

さて、今年は「戦争」の二文字をよく聞く年になったと書きまし
たが、その理由は明らかに『安全保障関連法案』にありますよね。
こうなれば、ここでもあえて政治的なことを書くべきなのかもし
れませんが、実際、僕はこのところずうっと考えあぐねている状
態なのです。
ですが、このことを考えるとき、僕は決まって、70年前の8月
のことを思い浮かべます。
僕の祖父は当時満州に居ました。いわゆる満蒙開拓団というやつ
です。厳しい自然の中で、家族や周囲の中国人らと共に、懸命に
開墾していたといいます。
しかし、やがて戦局は悪化します。関東軍は、兵站の根本である
はずの、祖父たちのような農民さえ、根こそぎ動員していきまし
た。結局、開拓団に残されたのは、妻たち、子供たち、老人たち
だけでした。
召集令状が来たとき、周囲の中国人は祖父に逃亡を勧めましたと
いいます。全力で関東軍からかくまうとさえ言いました。しかし、
祖父はそんな中国人たちの勧めを断り、軍に加わりました。こう
して、祖父は、兵士としてはまったくやる気がなかったものの、
上官が殺せと言えば、それに従わざるを得ない加害者としての兵
隊になったのでした。
しかし、数か月もせず、くだんの1945年、8月がやってきま
す。8月8日には、電撃的なソ連対日参戦が発表されました。
すると、あれだけ居丈高に威張り散らした関東軍は、守らなけれ
ばならないはずの、開拓団に残された女性や子供を見捨て、我先
に内地へと逃げ帰りました。
混乱の戦地で祖父は停戦の噂を聞いたといいます。『これで、家
族に会える』という安堵はもろくも破れます。ソ連軍は、日本兵
を捕虜とし、苛烈な抑留を開始します。
一方、開拓団に残された妻子は、誰にも守られることなく、奉天
駅にたどり着きながら、現地の人々に身ぐるみをはがされ、間も
なく、命を落としたといいます……。

祖父は生前、これらの経験について、ほとんど語ることはしなか
ったようです。語るには、苦しすぎる体験だったのだと思います。
そして、おそらく忸怩たる思いを抱き続け、語る代わりに、ただ
手記にのみ、のちの世代のために書き残してくれました。祖父の
文章からは、深い深い悔恨の念が伝わります。まして、「仕方が
なかった」とは、書かれていません。「あの時、自分はなにをす
るべきだったのか」という問いかけに終始しています。その問い
かけは、いつまでも、僕にいろいろなことを教えてくれることと
思います。

ところで、現政府の首相は、今話題の安全保障関連法案に関した
会見で、こんなことを言っています。
「絶対に戦争に巻き込まれることはない」
果たして、戦争に巻き込まれるか否か、僕にはわかりませんし、
その言葉を信じるに足る歴史を、日本はもっていないような気も
します。
なかんずく、僕には、その日本の現首相の姿が、兵隊になった祖
父を私憤によって殴りつけ続け、僕の血のつながらない祖母と当
時2歳にもならない伯母を見捨てた関東軍の人々にダブって見え
て仕方ないのです。


(いながき きよたか)




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