作者の意図


国語がものすごく苦手でした。
国語がダメだと、他の教科も伸びないらしいです。だから、学業
の方はからっきしでした。 それにしても、国語が苦手なくせに、どうして文章書きになんか
なろうと思ったのか自分でも謎です。
ともあれ、でも、まあ、思うに、『どうして作家になったんです
か?』の問いに、『国語が得意だったからです』と答える作家に
ろくなのはいないと思うんですよね。
だって少なくとも義務教育レベルの『国語』が出来たって、論理
性が上がる程度で、文学度や抽象度はちいとも上がらない気がす
るんですもん。

そもそも国語の授業のたびに、僕は頭の上にでっかい?マークを
浮かべていました。
小学校だか、中学校だか、忘れましたが、芥川の「杜子春」かな
んか、そんな小説が教科書に載ってました。
で、先生はクイズを出します。
「じゃあ、作者が意図していることはなんでしょう、はい、いな
がき君!」
僕は即座に答えます。
「わかりません」
先生は、ため息交じりに、他の生徒を当てます。
「はい! 高望みをせず、人間らしい生活を営むことが一番大事
ということです!」
「正解!」
今度は、僕がため息ですよ。で、心の中でこうつぶやきます。
「おまえ(先生)のさじ加減ひとつだろうが」
いや、本当にそうなんですよ。そんなクイズの正解、不正解は、
国語教師のさじ加減ひとつなわけです。
わかんないですよ、だって、作者はそんなこと意図してないかも
しれませんもん。芥川なんて、死んだの昭和2年ですよ、イタコ
じゃあるまいし、芥川本人に聞いたのかっつう話ですよ。しかも
35歳で自殺ですよ、だいたい自殺なんてする人が、ほんとに
「高望みせず、人間らしい営みが一番」とか、意図してんでしょ
うか。
おおよそ僕やただの学校の先生なんかにゃ到底わからない、高尚
な作者の意図っていうものが、きっともっと他にあるんじゃない
かって、思うのが道理だと思うんですが。

でも、ある時、わかったんです。こんなのは、茶番だと。『作者
の意図』がわかるなんていうのは、幻想だってことを。
そう考えるようになったら、あら不思議、なぜか僕は国語のテス
トで結構点が取れるようになりました。
だいたい、よくよく入試問題なんかを見ると、作者の意図は?な
んていう問題なんか、出てきません。そりゃそうですよ、たとえ、
作者の意図があったとしても、問題にして点数がつけられるよう
な答えになんかならないですもん。
じゃあ、『国語』ってだいたいどんな科目かというと、もっと
『数学』的なんじゃないかと思います。
僕は大学では文学部という学部に入りました。そこで、論理学な
んつう小難しいやつをちょこーっとかじったんですが、「ああ、
なるほどね」って思ったんです。
言葉を全部記号に置き換えて、式化するんですね。
『人間はみな死ぬ(=P)。かつ、ソクラテスは人間である
(=Q)。ならば、ソクラテスは死ぬ(=R)』
(P∧Q)⊃R
なんて具合に。
そこから見えてくるのは、正しい推論とそこから導き出せる論証
というわけです。
なんだか『作者の意図』なんていうぬるい曖昧さが挟まれる余地
はなさそうです。

それに、こんなこともあります。
論理学とはちと違いますが、ロラン・バルトという人がいました。
どういう人かというと、いわゆる哲学者ですね。ちなみにフラン
ス人です。
この人が提唱したのは、「作者の死」というやつです。
バルトは、『物語の構造分析』という本を書いてまして、ここで、
物語をまさしく論理学風に分析したんですね。
たとえば、ギリシャ神話のオイディプスなんかを物語のベクトル
や出来事に腑分けして、記号にし、それを式にします。そして北
欧の神話やエジプトの神話も同じ手順で記号化して当てはめてみ
るわけです。
すると、各神話は時間的空間的相関関係にないにもかかわらず、
ある類型が浮かびあがるのです。もちろん、類型だけでなく、差
異も浮かび上がります。
こうすることによって、それまで『作者の意図』に代表される非
体系的で、通時的な歴史=物語の再生産しか生まなかった文学が、
人類学や言語学、社会学や、精神分析学などといった他の学問と
の横断的な研究対象になりえるようになったわけです。
まさに「作者の死」ですねぇ。

こんな感じのことを、どうやら、構造主義とかポストモダンとか
言うらしいのですが、僕が学生の頃は、ちょうど、ポストモダン
の終わりかけ、学究的にも構造主義的なアプローチが定着してい
ましたので、本を読むにしろ、映画を観るにしろ、こういう読み
解き方がいつの間にかしみついてしまいました。
「脱構築」とか「テクスト主義」とかっていう読み解き方ですね。
これに関しては、演説をぶつと遠大になってしまいそうなので、
この辺で切り上げましょう。

というかですね、僕の経験上、『作者の意図』が、簡単に読み解
けてしまうような文学作品は、屁のツッパリにもならんです。非
常につまらないですよね、というか、致命的です。
たとえば、『罪と罰』のラスト、ラスコーリニコフがセンナヤの
広場で、地面にチューする場面、ありますよね。
あそこで、ラスコーリニコフが、あほ面下げて「人殺しは悪いこ
とだ!」とか叫んだら、まさに興醒めですよ。
狂ったように笑ったかと思うと、ソーニャの『大地にも罪をおか
した』という言葉を思い出して、号泣しながら、大地にチュー!
だから、面白いんだと思います。
あと、たとえば、『こころ』なんか、「Kは、恋にうつつを抜か
した自分が許せなかった、だから自殺したのです」とかなんとか、
漱石先生が書いてたら、凡作中の凡作だった気がします。
実際は、先生は、「Kがどうして死んだのか」という理由をみん
なに聞かれて、非常に苦しめられます。先生は、ただ、『「自分
が殺した」と白状してしまえ』という幻聴を聞くのみ。自殺の理
由については、「意志弱行で到底行先の望みがないから」という
Kからの遺書をそのまま繰り返すだけです。だから、のちの研究
者がこぞってみんなKの自殺の理由をあれこれ面白おかしく詮索
できたわけです。

それに、これは映画やドラマでもおんなじことだなー、と自戒を
込めて、思う次第。
シナリオを書く身として、やっぱり、スケベ心が時々、顔をだし
ちゃう時はあります。
でも「ここでインパクトのある正義感あふれるメッセージを言わ
せたらかっこいいぞ!」なんて陶酔してると、すげえ恥ずかしい
思いをあとからします。いざ登場人物にメッセージを託すと、た
だのきれいごとどころか、物語全部を台無しにしてしまいかねま
せんからね。
でも、最近、この手の作品、多いなぁと思うのは気のせいでしょ
うか。別に、人の事とやかく言える立場にないですが、さすがに、
主人公が作者の代弁してるの見るとげっそりします。で、不思議
なことに、そういう作品がけっこううけるみたいなんですよね。
もう、『ポストモダン』とか言ってる場合じゃないのかもしれ
ません。

(いながき きよたか)




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