山梨行


郷里の愛知県を出るまでは「山梨」と聞いて、思い出すことはあ
まりなかった。東京に住むようになって、ようやく「山梨」が近
づいた感じである。
こういう仕事をしている宿命なのだが、休日は決まって毎週末に
やってこない。それは不安定にやってきて、たとえば突然あさっ
て休みになる感じである。だから、旅行の予定が立てにくい。思
い立って出かけるにしても、だいたい日帰りになる。妻子を持つ
身なわけだから、日帰り旅行と言っても、夜は早めに帰宅せねば
ならないし、であるからして、おのずと行先は我が家より半径1
50キロほどとなる。
そこで、「山梨」だ。
静岡でも、埼玉でも、千葉でもいいのだが、故郷が東京以西なも
ので、東京以東は地理に暗く、あまり足が向かない。と言って静
岡は、少々飽きたきらいもある。毎度帰郷の際、東名高速を走り
ながら通り過ぎる分、飽きたといって割を食っている静岡には悪
いが、仕方がない。だから、「山梨」なのである。

ここ数年、梅雨入り前になると、サクランボ狩りに行くことが多
い。これも、妻子対策である。もともと、この果物のくせに「狩
り」というのが、よくわからない。「摘み」なら、まだわからな
いでもない。しかし、まあ、もいでそのまま食すわけだから、
「狩り」でもいいのかもしれない。けれど、樹木から、直に果物
をもぎ、そのまま口に運ぶ行為は、なんとなく居心地が悪いでも
ない。せめて、一度、かごか何かに溜め、流水で洗い流してから
食すことはできないものかと思うが、それでは「狩り」ではなく
なる。原発事故以後、放射性物質に敏感な人にとっては到底無理
な行為だろうなと思いながら、僕は、サクランボをもぎ食べた。
僕が、流水で云々したいというのは、なにもそういう公害につい
て言っているわけではなく、あくまで習慣によるものだから、気
にしなければ、別になんということもない。事実、じかにもいで
食べるサクランボは甘くてとてもおいしい。ただ、やはりなんと
なくいたたまれない。
食べ放題制限時間40分と言われても、サクランボを40分間食
べ続けられるわけもなく、それどころか、ものの5分で、飽きて
しまい、僕らと桜の木を管理している農園のお兄さんと世話話に
花を咲かせていた。
桜の木の農園は網でおおわれている。主に鳥害対策だそうだ。特
にカラスは天敵らしい。聞いてみると、お兄さんは、カラスを猟
銃で追い払うそうだ。しかし、カラスは頭がとてもよいらしく、
猟銃を積んだ軽トラックが近づいただけで逃げていくそうだ。頭
がいいどころの騒ぎではない。動物的直観としか言いようがない。
猟銃と聞いて僕は、色めき立った。かねてから猟に興味があった。
聞くと、シカやイノシシを撃つ猟師さんがすぐ目の前の家に住ん
でいるそうだ。サクランボ狩りに来て、実際の「狩り」の話をし
ていては世話がないが、興味には勝てず、少々話し込んだ。やは
り哺乳類を撃つとなると熟練の経験が必要なのだという。とても、
昨日今日猟銃を持ったお兄さんでは無理らしい。そして哺乳類を
撃つには経験と共に、猟犬が必須だとか。山梨だけに甲斐犬かと
聞くと、甲斐犬は鳥までだそうだ。哺乳類を撃つとなると、小さ
すぎるのだ。そのあたり一帯では甲斐犬の代わりに紀州犬を使う
らしい。猟犬になるには、犬といえど、相当な才能がいるのだろ
う。「相当仕込むんでしょうね」と聞くと、才能がない犬は子犬
の時分に「埋めて」しまうのだと、お兄さんは笑った。いや、笑
いごとではない。明るみに出れば、しかるべき連中から、つるし
上げにあわないとも限らない。特に昨今、動物愛護精神が高まっ
ているようだし、僕だって、それを聞いて「かわいそう」と思う
が、しかし、一方で、猟をする人間や犬たちにもひとかどの了見
があるのだろう、「かわいそう」の一言では片づけられない何か
が、子犬一匹埋めるにしても、あるのだろうし、僕は猟を経験し
ていないのだから、その了見はわかならい。門外漢がとやかく言
うのは野暮だから、ひとまず僕もこの「子犬問題」に関しては一
笑に付しておいた。

禁猟解禁は冬に訪れるのだそうだ。猟には厳格な取り決めがある
らしく、撃った獲物は都度役所に届け出るのだとか。しかし、毎
度大物を運ばれても、困るらしく、役場の方は尻尾だけを受け取
る。では、胴体はどうするのかというと、やはり、食うのだ。思
わず僕はよだれが出てしまう。しかし、心得がなければ血抜きは
面倒だし、いちいち、撃ったすべての獲物を精肉するわけにもい
かないので、余ったものは、腿だけ切り取り、やはり「埋める」
のだそうだ。なんだかそこらあたりを掘り起こせば、動物の骨が
ざくざく出てきそうである。もしかすれば、このサクランボも哺
乳類の血肉を栄養としているのかもしれない、などと想像すると、
サクランボの赤さも、さもありなんと思えてくるのだ。
しかし、新鮮な野生の肉に毎冬ありつけるとは羨ましいものだ。
味はどうか、料理はどうするのか、根掘り葉掘り聞いていると、
お兄さんは、それでも自分にありつけないものが、二つあると教
えてくれた。それは、肝と胆嚢だという。僕も聞いたことがある。
獲物の肝と胆嚢を猟師は決して譲らないと。内臓はあしが早い、
それにもまして栄養と滋味の塊である。味わうのは、撃ったもの
の特権なのだろう。
伴連れたちはまだサクランボを楽しんでいる。この「山梨」は、
東京からものの一時間ほどの場所にありながら、とても「人間ら
しい」場所かもしれない、と思いながら、僕たちはサクランボ狩
りを切り上げた。
ちょっと待てよ。この「人間らしい」は語弊があるかもしれない。
東京が「人間らしくない」みたいに聞こえてしまうきらいがある。
つまり、陳腐化してしまったヒューマニズムという意味ではない。
文化=シヴィライズドした人間ということではなく、未教化=バー
バラス状態の人間というほどの意味である。
不意に、猟銃を構えて、山に入る自分を想像してみる。獲物を撃っ
て、血抜きをして、さばき、肝と胆嚢を食す。とても、言葉を売っ
て暮らす身には手の届かないあこがれのようなものがある。


(いながき きよたか)




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