SI・GE・KI


自分のために料理を作る時、
なんでも辛くしてしまうようになりました。
うどんやそばにも、必要以上に唐辛子をふりかけてしまいます。
辛いものが好きというよりも、なんか中毒に近いような……。
子供の頃から唐辛子料理を結構食べていたので、
辛さには強いと思うのですが、
とはいえ、それほど固執してきたつもりはありません。
ただ、おじさんになって、きづいたら、
緩やかに中毒症状曲線が上昇してきたなぁという感じです。
そしていったんこの曲線が上昇すると、
なかなか後戻りできないとも感じています。

一説には、味覚は鍛錬のたまもので、
慣れ親しんだ料理の質によって「舌」の発達が違うのだとか。
主要な要素は五つ、
「甘い、酸っぱい、苦い、旨い、塩からい」なのだそうです。
日本人は、なんだかそこはかとない旨味を
感じる能力が発達していそうですよね。
しかし、待ってください。
この五大味覚には、
なんと「辛味」が入ってないではないですか……。
他説、辛味には、味の向こう側があるといいます。
激辛の向こう側に行ける者にしか感じられない味覚があると……。
辛味の向こう側に、僕も行ってみたいのですが……。
まあ、いずれにしろ、辛味って味ではなく、刺激なんでしょうね。
この刺激というやつは結構厄介で、
慣れるとどんどん欲しくなります。
ムツカシイ言葉で表現すれば「耐性が強い」
となるんでしょうか。
「耐性が強い」ということは、「依存」しやすいということです。
一度、刺激の快感に目覚めると、
「もっと、もっと」になるんですよね。
「こまけえこたいいから、とりあえず、辛くしてくれ」
ってなもんです。

こんな感じで「料理と刺激」についてつらつら考えていると、
はたと気づきました。
これは、「文学」や「音楽」についても
当てはまるのではないかと。

最近、少年期以来、なにげなく夏目漱石を
手にとって読んでいるのですが、
いやぁ、やっぱり面白いですね。
夏目漱石といえば、19世紀の日本文学者の中で、
ただ一人覚醒していたという印象がありますが、
他者と共感出来ずに、一人で小説を書き続けるっていうのは、
どういう心持だったんでしょう。
そりゃひねくれもするわなぁと、
なんだか勇気が湧いてきさえします。
ただ、この漱石の一連の作品、
料理にたとえれば、やっぱり、京都風なんですよね。
言い換えれば薄味です。
文脈が幾重にもかさなっている複雑なお味なわけです。
ある種の劇薬ではありますが、
「辛きゃいいんだよ」みたいな直接的な刺激はありません。
それに比べて、現代のある種の小説は、
いつのまにか、漱石にあるような複雑な薄味はなりをひそめ、
ただただ「辛味」が増しているような気がします。

「音楽」にも、そういう傾向があるような気がします。
ビートルズ以前の、プレスリーとかバディ・ホリーなどを
聴くにつけ、現代の音楽と比べると、刺激という点に関しては、
抑えめという感じがします。
いや、当時にしてみれば、相当刺激的だったと思うんですよ。
白人がテッカテカのリーゼントにして
黒人音楽をやるっていうのは、
ものすごく刺激的だったんじゃないかな。
しかし、聴衆は、すぐに刺激に慣れてしまいます。
音楽においての刺激と深くかかわっているのは、
ビートだと思います。
そして、このビートは、どんどん進化していくんですね。
オールディーズ、ビートルズ、パンク、ブレイクビーツ……、
時が下るにつれ、
ビートは「もっと早く、もっと重く」なっていると
いって差し支えありません。
言い換えれば、ビートの中毒曲線が緩やかに、
しかし確実に、上昇してきたんですね。

「文学」にしろ「音楽」にしろ、こういう事態を招くのは、
ひとえに、聴衆や読者の欲望に関係しています。
文学も音楽も欲望に支えられていると、僕は思っているのですが、
(言い換えれば、「客商売」ですね)
この欲望というものは、耐性が強くて、
依存度が高いものですから、すぐに慣れてしまいます。
だから、前よりもっと刺激が強いものが
求められるのだと思います。

ただ僕は「昔は複雑な味覚を楽しめるお客さんが多かったよな、
その点、今は大味な客が増えた」と、
嘆いているわけではありません。
なんたって、僕自身が、辛味アディクトなんですから。
超ファストフードや、うどんに醤油ぶっかけただけとか、
激辛カレーとかも、ウマいことにはかわりはないんです。
けれど、一方で、丁寧にダシをとって、複雑な調味をして、
素材にこだわって作られる高級な料理の味も
楽しめる「舌」を持ち合わせたいなあと、
思う次第なのでございます。


(いながき きよたか)




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