吉本隆明1


フェイスブックを見ていたら、
TLに吉本隆明さんの顔写真が流れてきました。
このほど、ほぼ日で、吉本隆明さんの講演のアーカイブが
公開になったといいます。
なんと180以上の講演、全部タダ。
素晴らしい。
ゆくゆくはポッドキャストにも対応するらしい。
いやー、僕のポッドキャスト人生がはかどること間違いなしです。

ゆえあって、一度生前の吉本先生のお宅に
お邪魔したことがあります。
忘れもしない2009年の暮れ、
12月19日のことです。
吉本隆明の最晩年と言ってもいい時期ですね。
これは、別に仕事とは全く関係がなく、
完全プライベートでの出来事でした。
どんな縁故かというと、
イギリス留学時代の知り合いが
関西で行っている読書会の発起人さんが
吉本先生に私淑していて、
年に一度お宅にお邪魔するとのこと。
その知り合いは、何かというと『共同幻想論』を
読んでいた僕の事をよく覚えていてくれて、
わざわざ声をかけてくれたのでした。
その時のことを少しお話したいと思います。

それにしても『知の巨人』とも言われるような
著名人であるはずの先生が、
関西の読書会のいち発起人を家に招き、
六時間もお話を聞かせて下さるという事実だけでも、
吉本先生の、なんというか、幅の広さというものが
垣間見えるというものです。
現代の著名な言論人たちに、こういうことができるかと
考えるとき、僕はかなり疑問に思います。
翻って言えば、こういう活動を日常からされていたことが、
吉本先生の、誤解を恐れずに言えば『大衆性』
みたいなものを担保していたのだと思います。

2009年というと、もう六年も前になるんですね。
丁度、民主党が政権交代を果たした年でもあります。
余談ですが、緒方明監督の『友だちと歩こう』を
観に行った時の事、ティーチインにて脚本家の
青木研次さんが、
「僕たちは、いまいち、震災前の日本を覆っていた
気分みたいなものを思い出し辛いのではないか?」
ということをおっしゃっていて、
全くその通りだと共感しました。
この「思い出し辛い」という状況は、
余りよろしくないと個人的に思っていて、
なんとか震災前の雰囲気を覚えておこうと
努めているのですが、
その震災前の日本の気分と繋がる鍵は、
僕にとって、この吉本先生との出会いになっている気がします。

吉本先生との話は、「イメージとビジュアル」に
ついてから始まりました。
2009年の当時にはもうすでに先生は視力を
だいぶ失っていました。
読書会の発起人さんが先生に最新本への
サインを求めた時のこと、
先生は非常に漢字を書きにくそうになさっていました。
視力を失うと「漢字」はかなり書きにくくなるそうです。
それは、漢字がかなりビジュアルとイメージに
依拠しているからだと先生は話していました。
確かに……。
そして、そんな話は、いつのまにか
「脚本と詩」に移っていきました。
奇しくも僕の仕事はビジュアルにかなり依拠しています。
と、同時に、先生のキャリアの出発点である詩も、
先生曰く「ビジュアルとイメージ」なのだそうです。
「詩は文字(もんじ)。その内容は、字がもたらすもの」
そう、先生は言いました。
それを僕的な極論にしてしまえば、
「何を書くかではなく、どう書くか」
なのではないかと思います。
そういった意味では、脚本と詩は近接関係に
あるのかもしれません。
脚本も、僕の肌感覚で言えば、何を書くかに
腐心するうちはなかなかよいものが
書けないような気がします。
どう書くかについて思案を巡らせるようになって
初めてシナリオらしいものが書けるようになると
感じています。そしてそれは詩も同じだと言うのです。
そんなことを先生に示唆してもらって、
僕は脚本に対する考えを新たにしたりしました。

先生は、あえて僕の前でシナリオ論的なことに
踏み込もうとはしませんでしたが、
経験されたことから引き寄せ、
テレビ的なことについても語ってくれました。
テレビ出演をしばしばなさっていた時の事、
先生にはなんだかうまくいかないという考えが
漠然とあったといいます。
そして、ある時、先生はとうとうこう豪語しました。
「テレビなんかもう出ねえからな!」
なぜなら、考えていることについて喋ることは、
テレビ(というか映像)の中ではほとんど不可能だと
思い至ったからだといいます。
確かにそんなふうに思うこともよくあるような気がします。

テレビ(≒映像全般)の中の登場人物、
それはアナウンサーでも役者さんでもいいのですが、
彼らが喋っているのは、実は話し言葉ではありません。
話し言葉の言葉です。
「話し言葉の言葉」というのは、
丁度脚本家が書くセリフみたいなものと
思ってもらって構わないと思います。
そして、「話し言葉的な言葉」は、
元の話し言葉というものが持つ性質上、
油断すると非常に分りにくくなるものですから、
努めて解説的になることが要求されます。
そして、その解説という語りは、先生の行う思索、
そしてそれを定着させる文章とは
根本的に相いれないと共に、
映画やドラマにとって敵とされています。

以上は反語的な文脈なのですが、
とにかくいい映画やドラマというのが
解説的なものではないというのは、
大方の同意だと思われます。
にも関わらず、テレビや映像の話し言葉が
宿命的に解説的にならざるをえないというのは、
いやぁ、身につまされます。
どうしたら、セリフを解説的でなくできるのでしょうか。

解説と話し言葉は本質的に違います。
解説は、目的地にただ一目散に到達する使命を帯びています。
けれども、しゃべり言葉の時はどうでしょうか。
僕たちが喋る時、それは目的に近づくというよりも、
同じ地点をぐるぐると反復しながら、
目的自体が横滑りしていくという感覚に
とらわれることはありませんか?
そんな話し言葉を映像で見る時、
僕たちは往々にして
「わからない」という感想を持つのだと思います。
そうです。解説的なものを回避しながら、
いい映画やいいドラマを増やす唯一の方法は、
この「わからない」を許容することだけだと思います。
この「わからない」の許容の仕方が
まさに面白いのだと思うのですが、
どうでしょうか。
その方法は様々ですよね。
「わからない」ことへのリテラシーを高めて、
「わかる」に到達するのもそれはそれでありだし、
「わからない」をそのまま抱きしめて楽しむのも
ありだと思います。
ちなみに僕の楽しみ方は、「わからない」ことを
反復したり横滑りさせたりするという方法です。
先生の著作である「共同幻想論」を読んでいた時などは、
まさにこのような方法でアプローチしていました。
これは、目の前で起こる「反復」を
「反復」させたりするという、
まあ、一種のメタな遊びみたいなもんですが、
けっこう病みつきになります。
で、「反復」するうちに、「わかった気」になったりします。
この「わかった気」になるって
けっこう大切だと思ったりするんですけど、
昨今は、なんか無性に白黒つけなければ気が
済まなかったり、
知ったかぶりを異様に嫌悪したり
する空気感が支配的なので、
「わかった気」って、難しいんでしょうね……。
しかし、こんな空気感は、
皆にとって損だと思うのですが……。

まあ、そんなメディア論的な一幕をプロローグに、
先生との対話の幕は開きました。
いよいよ、読書会の発起人さんが聞きたい
(当時の)「情況」というものに話が及びます。
その情況というのは、まさに、
「政権交代が達成されたはいいが、
どうもお祭りっぽくていかがわしいなぁ」、
発起人さんを始め僕でさえ、
「民主党への懐疑心がぬぐえないなぁ」と
思っている空気感です。
ただ、そんな空気感に明確な答えを
出してもらえると思いきや、
吉本先生から出てきた言葉は意外なものだったのでした。
このお話は、なんとなく、今にして思えば、
2009年には先取りしすぎてて、
2015年の現在にこそ有益なんじゃないかなぁ
なんていう内容だったのですが、
少し長くなってきたので、
「情況」のお話は、また次回に回したいと思います。

(いながき きよたか)




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