いながききよたか通信 六月二十六日号


この間、家人から、ふと、こんなことを聞かれた。
「趣味ってなに?」
はて、他人から見たら、僕には趣味がないのか。
改めて、考えると、確かにない。
けれど、趣味がないのは、ちと、さびしい気がして、
なんとかいろいろ考えた挙句、
「タバコ」かもなぁ、と思い当たった。

まず、趣味を、
『完全なる自由な時間に費やす自分だけが楽しめる活動』と
規定して、考えてみると、なかなか難しい。
ほとんどが、仕事に関係していたり、
家族に関係していたりする。
でも『タバコ』はどうか。
タバコを吸うのは、ほんの短い時間だけど、
完全なる自由な時間だし、
他の誰の得にもならない自分だけが
楽しむ活動とも言えそうだ。

昨今の喫煙者はかなり肩身が狭い思いをしていると思う。
でも、まあ、喫煙を嫌に思う人がそれなりにいるというのは
事実なのだし、わざわざそういう方たちの嫌悪を
掻きたてるのはまったくもってよろしくないので、
喫煙者は配慮をもって、煙を楽しむべきでしょう。
で、『昨今』と書いたわけなのだが、調べてみると、
喫煙に対する規制というのは、
なにも、『昨今』に限らないということが、わかった。

僕の本棚に、『たばこ博物誌』というものがある。
今は、そんなに知る人がいないかもしれないけど、
昭和の大趣味人:梅田晴夫さんがしたためた本である。
それによると、まず、我が国にタバコが伝えられたのは、
1590年代とのこと。
1590年代と言われても、いまいちピンと来ないから、
戦国時代、豊臣秀吉全盛期と言うと、
イメージできるかもしれない。
この事実だけなら、まあ、「そうだろうな」くらいだけど、
では、我が国で、
初めて『タバコ禁止令』出されたのは、いつか。
これも調べてみると、同じく豊臣秀吉政権時代だという。
こちらは、なんだか、『へえ』となる。
伝来とほぼ時を同じく、タバコは禁止されたわけだ。
それ以降、この『タバコ禁止令』は、
徳川300年の間も生き残り、
姿を変え、内容を変え、
明治に至って、『未成年者喫煙禁止法』に落ちつくまで、
続いている。というか、今も、続いている。
ただ、この『禁止令』という内容も、
いろいろあるようで、
喫煙そのものの禁止という厳しいものから、
乱用の禁止という比較的戒め的ニュアンスのものまで、
その時代で変遷してきたようだ。
いずれにしろ、こういう事実を知れば、
なるほど、喫煙者の肩身の狭さは、
今に限った事ではないのだな、
いつの時代も日陰者だったのだなと、
少し、安心する。
なんの安心かわからないけど。

しかし、なぜ、禁止されたのだろう。
それを探っていくと、その理由が、
たんに体に悪いからということだけでは
なさそうということがわかってくるんだけど、
まあ、つっこんで書くと、
タバコの政治性みたいな話になってきて、
ややこしいので、この辺でお茶を濁しておこう。

西洋に目を移してみよう。
ヨーロッパで、初めて喫煙を目にしたのは、
一応、コロンブスということになっているらしい。
新大陸発見と同時に、
ネイティブアメリカン達の喫煙を、
コロンブスは見たのだろう。
新大陸発見が1492年で、
日本にタバコが伝来したのが1590年代だから、
ほんの百年足らずで、
タバコは全世界を席巻したことになる。
とにかく、喫煙文化はまたたくまに、
ヨーロッパに拡がると共に、最新の流行となった。

当時のイギリスは、エリザベス朝といって、
戯曲にスポーツに、日々おこなわれる酒宴にと、
かなり自由な文化が華やいだ時代であった。
時の文化を担うクリエーター達も、
いち早く喫煙文化を取り入れ、
その作品に登場させたらしいが、
調べるところによると、
同時代の中でもずば抜けた劇作家であった
シェークスピアの作品には、
どうやら喫煙シーンがただの一回も出てこないらしい。
これには、こんな理由がある。
エリザベス朝という自由な時代の象徴でもある
エリザベス一世自身、かなり自由な人で、
優雅な時代の空気を謳歌したという。
だが、彼女の後、王の座についたジェームズ一世は、
エリザベス一世とは正反対の性格の持ち主で、
かなり気難しく、かつ非常な嫌煙家だった。
シェークスピアという人は、
エリザベス一世にかしずくと同時に、
彼女が亡くなると、
このジェームズ一世にも仕えねばならなかった。
当時の作家といえば、
やはり時の権力者におもねらねばならない立場の
人間だったということは想像に難くなく、
シェークスピアもこのエリザベス朝から
ジェームズ一世統治という時代の転換に
うまく対応しなければならなかったのだろう。
だから、シェークスピアは、
ジェームズ一世から厭われないよう、
自身の戯曲に煙を出さなかったのではないか……。
いかに天才作家といえど、
文士というのはいつの世も世知辛い。

しかし、好むと好まざるとにかかわらず、
やはり文化活動はその時代の風俗を鏡のように映すもの。
大衆風俗の中でも大きな割合を占める(と思われる)
喫煙文化は、
表現物とは切っても切り離せないもののようだ。
映画の中にも、喫煙シーンは随分出てくるように思う。

(宮崎駿監督『風立ちぬ』は、
随分嫌煙家に叩かれたようだけど、
『僕、観てないから、、、』と、そっと逃げます)

この間、とある高齢の映画監督と
打合せさせていただいた折にも、そんな話になった。
監督にとっての、心に残る喫煙シーンは
何と言ってもジャン・ギャバンのそれだそうだ。

紙タバコの場合、概して二通りの吸い方がある。
指を二本立て、その間にタバコを挟む吸い方、
これをマリリン・モンローに見立て、
モンロー型と呼ぶことにしよう。
そしてもう一つは、人差し指と親指でつまむように
タバコを持つ吸い方、
これで有名なのは、やはりジャン・ギャバン。
これをジャン・ギャバン型と呼ぶことにしよう。
このジャン・ギャバン型は当時、かなり流行したようで、
伊達男たちはこぞって
タバコをジャン・ギャバン型に持ち替えたらしい。

かなり前の事だから、なんの雑誌か忘れたけど、
映画特集の中で喫煙シーンを取り上げた記事があった。
その記事を書いたのは、とある精神分析家だったのだが、
その某曰くこの二つのタバコの持ち方の違いが、
その登場人物の深層心理を表すのだという。
なんでも、モンロー型は外交的性格の持ち主で、
ジャン・ギャバン型は内向的なんだとか。
「へえ、そんなもんかね」と、思ったものだ。

だが、映画監督さんのジャン・ギャバンについての話は、
少々精神分析家の記事とは趣が違っていた。
監督によると、タバコの吸い方一つについても、
演出的な確固たる理由があるのだという。
ジャン・ギャバンが演じるのは、いつも労働者なのだ。
労働者は金がない。
タバコを吸うにも、
つい貧乏性が出てしまうものなのである。
極力タバコの端をつまみ、
最後の一服まで味わえるようにする、
そういう労働者のリアリティを
ジャン・ギャバンは演じているというのだ。
精神分析家の記事の曖昧さとはちがい、
この監督の話にはなるほどと膝を打った。
映画における俳優の演出というのは、
やはり具体的な根拠があるものなのだ。
深層心理などという曖昧なものは決して画に映らない。
画に映るリアリティを追求してこそ、よい映画になる。
そんな監督の言葉に酔い痴れながら、
僕はまたタバコに火をつけたのだった。
ちなみに、僕は、モンロー型である。

(いながき きよたか)




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