年年歳歳



なんだか、もう1400年も前のこと、
中国の劉さんという人がとある詩を残したそうだ。
『年年歳歳花相似、歳歳年年人不同』
(年年歳歳花は相似たり、歳歳年年人は同じからず)
毎年毎年花は変わらず咲くけど、
毎年毎年花を見る人は変わっていくなぁっつうことらしいですが、
ようは自然は変わらないけど、
人間は変わっちゃうってことですな。
でも果たしてそうかなぁ、
いや別に劉さんにケチをつけたいわけでもなんでもないのだけど、
今、僕は正反対のことを感じているのだ。

実は、三月生まれの僕は、この間、誕生日を迎えた。
幼少の頃、家庭的に誕生日を祝うという
習慣がなかったものだから、
他人の誕生日はおろか、
自分の誕生日さえ忘れがちになるくらいなのだが、
今は、Facebookとかが、わざわざ教えてくれたりして、
世話がないんだけど、自分が使ってる道具に、
否が応でも幾つになったよーとかお知らせが来たりすると、
こっちが利用してやると思ってる道具に、
逆に利用されてる感じがして、焦ったりする。

少しは成長したかなと、いやいや一年前を振り返ったりして、
その成長してなさぶりに悲観的になる。
「変わんねぇなぁ、オレ……」みたいな感じで。

もう一つ、三月は否が応でも思い出されることがある。
誕生日はめちゃくちゃ個人的な体験だけど、
こっちはめちゃくちゃパブリックなので、
思い出さないことがまるで駄目人間認定されそうで、
怖いから、無理矢理考える。
三年前の三月十一日に起きた地震の事。
まあ、僕は僕で考えてるからわざわざ「こうだ!どうだ!」
みたいにして書くつもりもないのだけど、
ただ一つ痛烈に思うのは、
「どんだけ変わってくんや、自然」ということ。

この僕の、ひいては、僕らの持っている
「変わりゆく自然観」というのは、
「年年歳歳」という詩をひねった劉さんには
少し理解しがたいかもしれない。
大陸的自然観は悠久の時にたゆたうのかもしれないけど、
日本的自然観はその年その年、いやもしかしたら、
その日その日でさえ趣を変えてしまう、ような気がしてしまう。
いわゆる「無常」ってやつですな。
そして「無常」に生きる人間どもは、
その都度感情を波立たせていては体も精神ももたないので、
凪いだ感情を持ち合わせるようになる、
のではないかというのが、冒頭示した疑問なのです。

三つ子の魂百までということわざがあるように、
人はなかなか変われない。
最近、とくにそう思う。
もっとオレ本読めよ、
もっとオレ映画観ろよ、
もっとオレ書けるだろと鼓舞する割に、
すぐ怠惰に走り、惰眠をむさぼってしまう。
一番の大好物は、布団というありさま。

一方で、日本の自然は超うつろいやすい。
雨という文字がつく熟語だけで、実に、200語以上ある。
豪雨、驟雨、涙雨、祈雨、霧雨、
もう、挙げればきりがなく、一つたりとも同じ雨はない。
雨一つで、よくもまあこんなに感じ入ったもんだと
逆に感動するわ。
というわけで、今、僕はやけに、こんな気分なのだ。
「年年歳歳人相似、歳歳年年花不同」

(いながき きよたか)




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